Home < 明治からの当社の歩み

塗装のはじまり

漆塗りの縄文土器(縄文後期) 人間は有史前から“塗料”を使用していたようで、約5千年前の土器にもその跡が見られます。当時の塗料は「漆(うるし)」でした。そのとき既に「赤漆」が使用されていました。
 日本に仏教が伝来すると、その建築技術と同時に高度な漆塗り技術も伝わり、貴族の嗜みであった仏教の建築に色鮮やかな漆が塗られるようになりました。当然のことながら、その目的は風雨から建物を守るために漆を塗っていた事に、色という付加価値が付いたのです。塗料が保護するという目的だけでなくキレイに見せるというプラスの目的を持ったのは、この頃からであったのではないでしょうか?
(写真は 縄文晩期の漆塗りの壺)

洋式塗料の伝来

 洋式塗料の“伝来”は幕末でありました。あのペリーと黒船が洋式塗料を持ってきたそうです。 日本で初めて洋式塗料が塗られたのは日米和親条約を結ぶ建物であったと言われています。塗装を行ったのは江戸の職人・町田辰五郎という人物であったようです。
  明治に入り、日本は急激な近代化を進めます。開国まもない明治10年ごろの横浜であったといわれています。明治14年には、日本ペイントの前身である光明社が設立され、日本における洋式塗装の歴史は始まりました。それ以前はというと漆を使用した和式塗装が行われており、弊社の前身も塗師屋(ぬしや)でありました。

絹の都・前橋への塗装持ち込み

 当社の創業は明治34年(1901年)ですが、洋式塗装自体はそれより前から請負っていたようです。明治10年ごろに洋式塗装の技術を会得するために一家で横浜に一時移り住み、数年後に再び前橋に戻ってきたという記録が残っておりました。初めのころは、漆と塗料の両方を扱っていたらしいのですが、次第に洋式塗料の割合が多くなっていったようです。
  当時の前橋と横浜は絹の産地と出荷港として結びつきが強く、東京から離れた前橋であっても絹で儲けた金持ちが多く、高級品であった塗装の需要も多くありました。当時の得意先としては国鉄(現JR)、東京電力、や地元養蚕業者の名が残っています。

戦後の塗装

現在のような「ペンキ」が一般に使われるようになったのはもちろん戦後なのですが、昭和30年ごろまではニカワを煮て塗料を作る作業が行われていました。塗料の色も各社で独自に調合していたので色を作る技術の良し悪しも塗装業者を選ぶ重要なポイントとなっていました。
当時の記録では「お宅の作る色がイイ!」と注文を下さるお客様が実に多かったとあります。

吹付の登場

リシンガン(吹き付け機) リシン、ボンタイル(吹付タイル)の登場は建築塗装の世界を一変させました。それ以前は手塗りが全てであった塗装においてコンプレッサーなどの機械を使用するようになり、また吹付け独特の模様をつける作業が工程に加わりました。当初は塗装と左官の中間ぐらいに位置していたのですが、徐々に塗装職人が施工するようになりました。そんな中で吹付け工事を専門に行う業者も出てきました。

リフォーム会社の台頭

1990年代初め神奈川の同業者より地元リフォーム業者とのトラブルの話しを聞きました。大手塗料メーカーの商品を添加剤などを加えることで「オリジナル」とし、特許商品ということで、常識では考えられないほどの高額で塗替え工事を行っているということでした。ただ高額なだけでなく二流、三流で仕事にあぶれている職人を使って工事をしているため、いたるところでトラブルが続出しているというものでした。その頃はすぐに無くなると思っていたそんなリフォーム店が現在では皆さんのご存知のとおり至る所に存在しています。
また、倒産しても名前を変えて営業するなど、その異様さが目立ち、たとえテレビCMを行っている企業でも安心できません。

現在の塗装業界

 不況の名のもと、ダンピングや不当な請負金額の強制等により塗装自体のクオリティーはどんどん下がってしまっています。一般の方は「職人=こだわり」と考えている方が多いようですが、それはあくまでも真っ当な金額を出してもらえる場合の話なのです。いくら職人といえども常に損してまでは仕事にこだわりをもてません。ですから安くていいものは存在しないのです。安いのは安いものです。といっても高いからといっていいとは限らないのがこの世界の難しいところなのです。

有限会社岡部塗装店 〒371-0031前橋市下小出町2-16-4 トップページへTOPページへ